サムエル下5:1−5/Ⅰコリント15:20−28/ルカ23:35−43/詩編18:47−51
「ダビデは三十歳で王となり、四十年間王位にあった。」(サム下5:4)
今日は11月20日。降誕前第5主日ですが、教会の暦ではこの週が一年の最後の週となります。そこで一年の締めくくりとなるこの主日を「終末主日」つまり終わりの主の日と呼んで、一年の歩みにおいて常に神さまの祝福が豊かに満ちていたことを憶え感謝する主日、そして次の週から教会の暦も新しい年となり、主イエスの降誕と再臨とを待つアドヴェントに入るわけです。おそらく4世紀頃にこのようなかたちが定着したのだと思われますが、救い主の誕生から新しい年が始まるのではなく、救い主の降誕を憶え再臨を待つ期節から一年が始まるというのはなんとなく不思議で中途半端な気がします。
しかしながら、晩秋のこの時期を一年の締めくくりとする風習は、歴史を辿れば地球上いろんなところに観られるものです。キリスト教の専売特許ではありませんでした。
そもそもで言えば、救い主イエスが生まれたのが12月であるという記述は聖書の中にはありません。イエスの言葉と行いとを留めていると普通考えられる福音書にイエスの誕生について記してあるのは4つある内の2つです。最も早く成立したマルコにその記述はありません。イエスの活動のはじめから十字架の死に至るまで──それもほぼ受難を中心に──しか書かれていないのです。それが4世紀の頃までに、ヨーロッパで一年の締めくくり、同時に一年の再出発とされていた冬至の祭りがキリスト教に取り入れられてクリスマスが12月になっていったわけです。冬至の祭りは太陽の復活を待つ祭りでもあります。ですから晩秋に締めくくりを見ていた風習の方が先で、それがキリスト教に取り込まれたということになります。
日本においても今週水曜日は特別な日です。今は単に「勤労感謝の日」という休日の一つですが、多くの休日が月曜日に移動したのにこの日だけは23日と固定されていて、固定休日のなかでは最も古くから最も長く続いている休日です。日が固定されているということはほとんど宮中祭儀に関係があると言われていますが、この11月23日は「新嘗祭」が行われる日です。天皇がその年に収穫された新穀などを天神地祇(てんじんちぎ)に供えて感謝の奉告を行い、これらの供え物を神からの賜りものとして自らも食する儀式です。これによって天皇自身が天照大神と同体になるという最も大事な宮中神事で秘密めいて行われるものです。
その問題性はひとまず脇に置いておくとして、晩秋になんとなく一年の締めくくりを感じるのは、やはり「農業」という連綿と続く営みの中で、収穫を憶えそれを与えられたものとして感謝する意識が洋の東西を問わず備わっているからなのだと思います。
そんな一年の締めくくりの日、礼拝の主題は「王の職務」です。「王」という存在も本来は収穫とその分配にかかわっています。「経済」という言葉が「経世済民」から来ていることは有名ですが「経世済民」とは「世の中をよく治めて人々を苦しみから救うこと」が本義ですから、単なるお金の流通のことではなく、王の職務に密接にかかわっている事柄であることがわかります。
しかし、イスラエルは本来「王政」には否定的であったことを忘れてはなりません。預言者サムエルとイスラエルの民衆とのやりとりが記録されています。「彼はこう告げた。「あなたたちの上に君臨する王の権能は次のとおりである。まず、あなたたちの息子を徴用する。それは、戦車兵や騎兵にして王の戦車の前を走らせ、千人隊の長、五十人隊の長として任命し、王のための耕作や刈り入れに従事させ、あるいは武器や戦車の用具を造らせるためである。また、あなたたちの娘を徴用し、香料作り、料理女、パン焼き女にする。また、あなたたちの最上の畑、ぶどう畑、オリーブ畑を没収し、家臣に分け与える。また、あなたたちの穀物とぶどうの十分の一を徴収し、重臣や家臣に分け与える。あなたたちの奴隷、女奴隷、若者のうちのすぐれた者や、ろばを徴用し、王のために働かせる。また、あなたたちの羊の十分の一を徴収する。こうして、あなたたちは王の奴隷となる。その日あなたたちは、自分が選んだ王のゆえに、泣き叫ぶ。しかし、主はその日、あなたたちに答えてはくださらない。」民はサムエルの声に聞き従おうとせず、言い張った。「いいえ。我々にはどうしても王が必要なのです。我々もまた、他のすべての国民と同じようになり、王が裁きを行い、王が陣頭に立って進み、我々の戦いをたたかうのです。」」(サムエル上8:11−20)
サムエルが王に見ているのは「経世済民」の王ではなく、軍事力による支配、力を振るう王です。それは神が与えてくださることとは異なると言っているのです。しかし人々は「力」を欲しがる。サウルではなくダビデを求めたのもそれ故でした。そして残念ながらわたしたちも、いやわたしたちこそ、彼ら以上に「力」を求め「力」を欲するのでしょう。
収穫は神の恵みでした。しかしいつの間にかわたしたちはそれを力によって奪った自らの褒賞であるかのように勘違いしています。技術力や経済力、そして軍事力、自らの「力」で得たのだ、と。わたしたちが誇りに誇ってきたその「力」が、得体の知れないウィルスによって今一番動揺させられ衰えさせられている。その動揺がさらなる軍事力の見境のない破滅的な行使へとわたしたちを転がり落としているように思えてなりません。
晩秋に一年の締めくくりを憶えるこの日、わたしたちのありようをもう一度心を静めて見つめ直したいと思います。
祈ります。
すべての者を愛し、お導きくださる神さま。この一年、あなたが常にわたしたちの一番近くにいてわたしたちを支え祝福してくださったことを憶え、感謝いたします。そして、そのことを全く感じないままで来たことをあなたの前に懺悔いたします。自分の力ではなくあなたを心から頼る者となることができるよう、わたしたちの心をつくりかえてください。そしてあなたから与えられる新しい使命に生きる者とならせてください。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。